UTokyo bicycle racing team

 最終日、別に時間が止まるわけでも、伸びるわけでもなんでもなく、当たり前に時間がやってきて、当たり前のように出走時間がやってくることにいささかの当惑を覚えながらスタートラインに並ぶ。こんなわけのわからない苦楽を連続で味わってきたしめくくりにふさわしいものが、きっとなにかあるのが物語的には正しいと思ったが、冷然と自分史上最強のクリテリウムは幕を開けた。
 スタート前には最初だけでも集団から飛び出して、五日間に花を添えて沈没する予定だったのだが、僕のアタックスピードが集団の普通のスピードであることに気づくのにそれほど長くはかからなかった。落車がおこる気配は少ないが、最初から相当にいきりたつ集団の後方に位置していると、どれだけ動きを先読みして、早くから自分のもてる限りのスプリントを立ち上がりに用意しても、加速がついていけないことが多発した。しかし、なぜか頭の方はそれなりに冷静で、前に走っているそれなりの人数が作り出す空気のトンネルのようなものが見えるというか、感じるというか、そこへ向かって下ハン握って高速巡航していれば確実に追いつけた。よって自分でつくった中切れは(記憶の限りでは)ほとんどない。まあ後ろの人は大変だったろうけど。
 中盤をまわって幾度か中切れに巻き込まれる。その度ごとに他の学連選手と連携しながら粘り強く集団に復帰した。ローテーションでは足を一杯に使いきらないように注意して、最後のブリッジの余裕を常に確保した。しかし、彼なら大丈夫と思ってついていたパールのホジェリオ選手が目の前でぶっちぎれたときにはもうだめだった。僕の一人後ろにいた同じパールの平塚選手が「ホジェー!」と怒鳴って最後のブリッジを試みるが、僕は彼にのらず(のれず)、ホジェリオ選手と最後まで協力して完走を目指す。結局平塚選手もメイン集団万でのブリッジには至らず、力を使い果たして僕とホジェリオ選手より短命に終わったので、まあ正解といえば正解だった。以後は二人でチームタイムトライアルをこなしていただけ。わずか残り二周で下ろされてしまった事は残念だが、他の学連選手のなかでもかなり生き残った方だったので、それなりにアンダーの順位を上げることができた。

 ゴール後、コースの閉鎖が解かれた後に、すかっと晴れた北海道の空を眺めながら満ち足りた気分で一人ガッツポーズをしながらフィニッシュラインをこえた。きわめて個人的なゴール、だけど同時にチームが目指してきた全てのものだった。からっぽになった体でチームカーの元に戻ると皆が笑顔で迎えてくれた。

 毎日ずたずたの体で、自分の自転車の面倒をみることはおろか、怪我をしてからは自分の荷物すらろくに運べない状況になってしまい、本当に走る以外のことをなにもできなかったが、サポートのみんなが全部やってくれた。本当にありがとう。全ての力を走りに集中できるあの体制無くして、もう走り続けることはできなかった。同時に、機会を見つけて、自分が皆を支えて恩返しをしなくてはなと、理屈抜きに感じた。OBの皆様、4人が悔しい思いをして途中でレースを離脱することになってしまったものの、16年ぶりにレベルの跳ね上がった北海道への久々のチャレンジで、ひとつの痕跡を東大が刻み込むことができました。皆様の支援の成果をぜひレポート、写真をみて確かめてください。

2008年9月18日 台風の鹿児島で